占いの裏話

名づけと個性の話
T、名付けの話

名前の付け方は時代と共に変わるものらしいが、それにしても最近の命名の様変わりを異様にさえ思う。 個性的という言葉が定着しているせいか、斬新さの願望を持った親、目立ちたがりの親が多くなったせいなのか、名前の@呼び方A読み方B使用漢字Cその配列の奇抜さが目立つ。
しかも、その奇抜さはいずれも好ましいとは到底言い難い。名前は、その人の人格形成に深くかかわるものである。人の人格そのものと言っても差し支 えない。人は意味のある自分の名前に誇りを持ち、両親からの最初のプレゼントを大事と心得て、感謝しつつ一生を過ごすのが通常である。
従って名前は親や一家の独り善がりで軽々しくつけて良いというものではない。

(1) 奇抜さの指摘
@、「呼び方」の奇抜さ・・・「ひびき」の事なので、両親の好みがもろにあらわれる。呼びやすい、聞きやすいという名付けの原則に反する変わった名前(奇名、珍名)がナント多いことか。「呼び方」の奇抜さは、数え上げるときりがない。
子の幸せを祈り健やかな成長を念じて決めたであろう名付け親にとってはイチャモンとしか取れないだろうから、本稿では具体例(名前ズバリ)を示すことは省く。例示された本人も傷つくだろうからである。
A、「読み」の奇抜さ・・・他人に正しく読んでもらえるかが一番重要であるはずなのに 
a、通常使われていない漢字を使用しているので、字面だけ では(ルビがついていなければ)どう読んだらいいのか見当がつかない。
b、漢字が難しくてどうしても読めない。 c、見た事が無い珍しい字を使用してい るので正しく読めない。 
d、読み方が幾通りもあって、まともに読んでもらえない。音や訓では素直によめず別な読み方をされる場合の方が多い。 e、当て 字またはそれに近い名前で関係者しか読めない。(初めて見る人には読みづらい。あるいは全く読めない)
f、「こんなの読めるか」と思わずつぶやいてしまう名前。
歳をとってからでさえ嘆いている人も現存する。普通の人が全く聞いたことがない名前、日本で一人しかいない名前を付けられた人の話である。曰く:  「字のそれぞれは難しいわけではないのに悲しいかな初めての人に正確に読んで(呼んで)もらったことは一度もない」「読み間違い、打ち間違いは日常茶飯 事。自分の名前を読み間違えられるのは誠に切ない」「ナンデそんな難しい読み方の名前を付けたのかと親を恨んだこともある」。 但し「自分と同じ名前の人がいない、珍しい世界に唯一の名前なのだからという理由で「良い名前だ」という考え方も稀にはあるらしい。
戸籍法では「子の名前には常用平易な文字を用いなければならない」としている(50条T項)。しかし、漢字の読み方に原則とすべき規定がない。読 み方に制限がないのである。つまり、何と読もうが、読ませようが法律上自由であるから、結果的にこの様な変な現象が起こってしまうのだと考えられる。読め ない当て字が当たり前になってしまい、むしろそのほうが流行のようでもある。更に法は「常用平易な文字の範囲は命令でこれを定める」とする(50条U 項)。そのせいか戸籍に登録できる人名漢字の追加、削除が時々思い付きのようにあり、その都度、新聞で報道されている。
参考までに、最悪のネーミングと言っていい会社名にかかわったが為に無駄な時間を費やした実例を次に挙げてみる。
所用である会社を調べた(その電話番号を知ること、その経営者に面会することを希望した)ときの実例である。漢字は簡単だが、聞いたことがない配列をしているのでどうしても読めない。
どういうネーミングなのか、読む手がかりもない。電話帳を見るにしてもその会社の職種がわからないので、「タウンページ」では調べることが出来ない。「ハローページ」を調べた。読み方に2通り有るのでは、と推定して2通りを調べた。出ていない。
住所が分かっていたので「住宅地図」を調べた。移転したのか、載っていない。
色々時間をかけて調べてみたが、結局わからない。後になって、その会社は、ある親会社(かなり有名)の傘下の会社だと人づてに聞いた。親会社の職 種が分かったので、それを手がかりに「タウンページ」を再び調べた。
出ていない。その後、住所は親会社の敷地内の一部に有る地番と分かった。地図上の住所 を頼りに尋ねたが、其処は駐車場になっていて人もいない。 ・・・・・・なんだ、これは。 親会社が何らかの目的で設立したペーパーカンパニーだった。社長の名前は親会社の社長の名前とは異なっていた。他人に知られたくない幽霊会社だから、会社名をわざと読めない配列にして、他人が覚えずらく命名したのではないかとも推定できる。 そういう仕掛けをする位だから、その親会社の経営は現在うまく廻っていない由、経営者は金策に日夜、四苦八苦しているとのことである。ネーミングが悪いせいである。
B、使用漢字の奇抜さとCその配列の奇抜さ・・・他人に正しく書いてもらえるかどうか。
a難しくて他人様には正確に書けない。
b、複雑な漢字なので書くのに時間がかかりすぎる。
c今迄見た事がない変な配列。
d文字は簡単だが、その並びでは読み方が分からない。
e使用漢字の配列が普通でないので正しく読めない。
f名前を聞かれるたびにアレコレ説明する必要がある。
g聞いただけでは漢字が思い浮かばない。(説明して分かってもらえる程度なら未だいいとしても電話で説明しても他人には理解してもらえない。)
h実際に書いて見せない限り他人には理解できない。
i(信じられない話だが)本人さえ自分の名前を正確にかけない
・・・・・など。
(2)、ユニークに名付けたつもりが、実はコトバ遊びとしか見なせない名前。
両親としては、流行に乗った命名だと得意満面なのだろうが、何も知らずに付けられ、一生付き合わねばならない本人の将来の立場、つまり成長過程や社会人となってからの生活の中で、どれほど困惑する場面に遭遇することになるかをアレコレと推測してしまう。
@、あまりに美しい名前をつけられたため、その通りにいかない気恥ずかしさから人知れ ず苦労している人もいると聞く。幼児の頃なら可愛いらしくていいとしても、白髪の老人にはどうしてもふさわしくない名前もある。
A、大和言葉ではなく外来語による命名を好む両親もある。むしろ、今やこの方が流行のようである。しかも無理に漢字を当てはめた不自然なものも良く見かける。好ましいとは言い難い。
B、逆に流行にとらわれるのを嫌い、当世的でない、どちらかというと普遍的な名付けをしたところ、後になって「時代に合っていないコンナ名前は嫌だ」と不満を言われるケースもある。 時代遅れの命名が気に入らずそのために何度も傷ついたと言うのである。多くは10代の、未だ自我の確立が出来ていない頃の麻疹現象と見てよい。
C、現在は人生80年を超える時代なのだから、一生通用する名前、社会一般に素直に受け入れられる名前であって欲しい。その名前の良さや命名時の両親の願いがいずれ本人も理解できるものでありたい。
D、名前ばかりは一生付いて廻り、逃れようがない。どうしても不都合なら通称としての改名をすれば解決はつく。改名を通称としたために、その後、驚くほどの開運をしている人も大勢いる。
(3)、なんと言っても一番マズイのは、名前だけでは男女の区別ができないケースだろう。「男なのに女に間違われた」「女なのに男に間違われ た」・・・など選りによって、どうしてそういう紛らわしいものに落ち着くのか理解できないものもある。これは、昔からあることだが、現代はその数が極めて 多い。女性が強くなったというよりは、男が弱くなった時代のせいなのだろうか。
女らしさ、男らしさなどといった固定観念は排除しなければならないが、名前と写真に加え、更に名付けの由来まで添えてあっても、男か女かわからないようなものではどう考えてもいい名前とはいえないだろう。命名された本人が将来、一番迷惑する。
「おそらく男だ。おそらく女だ。」の推定の領域にあるのでは、本人も周りも困るはず。
少なくとも名前に関しては「らしさ・・云々」などの屁理屈はぬきにしても、男女の区別くらいははっきりさせるべきなのは当たり前である。名前は、男女の区別が一見して分かるもの、間違えようのない男(女)の名前でありたい。
(4)、名前は単に他人と区別する為の記号である、という割切り方をする人もいる。 また、親と言えども子供に対して自由なのは「名付けだけだ」と言う人もいる。 しかし名前は授けられた瞬間から生涯その人と密接不可分の関係を持つことになる。 子が最初に聞き、最初に憶えるコトバとも言われている。 名前は生涯、朝から晩まで他人に何度も呼ばれ、書かれ、自らも何度も声に出して言い、また自ら書く。つまり自分のものでありながら公に供し他人も 使うものである。従って名前は自分自身であり、自分としての魂を宿したものと言って良い。だから将来この命名が我子を困らせることにならないか、他人の使 い勝手が悪くならないか、親の好みだけにとらわれて命名していないかについて丁寧に再考して欲しいのである。 子の将来の幸せを願う親心、子の将来に期待する親の心など、子の名前に込める親の熱い思いは、昔も今も(いつの世も)全く変わらないが、名前を決定する前には上述(1)(2)(3)を是非参照していただきたい。
(5)、本人が自分の名前を好きになり、両親も付けて良かったと思える名前とは:
親しく呼ばれる、呼び易い名前、 誰が見てもすぐに、正しく読める(難解な文字を使わない)名前
画数がなるべく少なくて、本人は勿論他人にも書き易い文字を使った名前、 意味を含ませるなら、親や祖父母の名前の一部がはいっている等深い意味を持ち一生誇りに思える名前・・・・・であろう。
(6)、姓名判断は上記(1)(2)(3)(4)(5)を重要視してネーミングした後の問題と考えて良い。姓名判断は苗字と名前の調和/字義/字 画数/画数とその数意の吉凶/文字の配置の吉凶/音霊の検出及びその吉凶/陰陽五行から見る配列の吉凶などの様々な難しい鑑定を必要とする。どうしても気 がかりなら前もって専門家の意見を聞き、これを参考にすれば自分の命名に自信を持つことができる。



U、個性の話



名前というと「個性」云々にこだわりたくなる。

そこで、「個性」という単語に関する私見を述べておく。

(1)、現代日本の世相では子供、子育てというと何故か「個性を伸ばす・・・・」「個性的
・・・・」という言葉が頻繁に飛びかう。

ある程度の日本語を話せる/読める/書ける/銭勘定ができる知識が無く、新聞のタイトルを(理解できなくても)読める位の基礎知識さえも持ちあわせていない子供、つまり義務教育期間前またはその期間中の子供に「引き出された個性がある」と言えるのだろうか。

@、人間から訓練を受けていないシェパードを見た事が有る。

山奥の農村(群馬県水上町)で、ある男が飼っているのだが、三重の囲いをした檻に入れられ、その男も(餌を与える時さえも)檻には入らないようである。ものすごい形相であり、声、動きが攻撃的、野生的で普通ではない。近寄るのも恐ろしいとはあのような事かという印象を持ったほどである。危険だから囲いが三重にしてあった。
シェパードと言えば一般には、利口で用心深く、勇敢で忠実だと周知されており現実に番犬、警察犬として世界中で有用され、大活躍している。
それらは適切な発育時期での調教、シェパードに合った適切な基礎的教育訓練を行って、その性癖、能力を上手に引き出した典型例である。逆に、放っておくと前者のように個性は生かされず、シェパードといえども本能むき出しの、ただの恐ろしい獣にすぎない。

A、人間も同じではないのか。

それにもかかわらず、子育ての世界においては基礎的な教育訓練に裏打ちされない「本能むきだしの個性」をいわゆる「個性だ」と誤解してはいないか。

そうして、「強制はいけない」とか、「伸び伸びと(放任して)個性を伸ばす」とか、「独創性,自主性を尊重する」とか、「たくましく育てる」とかの大合唱をしている。基礎さえも叩き込まずして過大に自発性の発揮を期待する、あいまいな考え/態度が心地よく感じられ、且つ物分りがよい大人に評価されるせいで、国民の殆どがこの間違った評論に付和雷同している。そして義務教育中或いはそれ以前の子供を一定の枠からはずすこと、ものの価値の判

らない子供の自主性にまかせることが「進歩した教育だ」という思い込みがある。つまり自主性イコール個人の尊重とする錯覚がはびこっているのは困ったことである。

修行している者ましてや義務教育期間中の子供に対して「自主性が自然に芽生えるのを待つ」という考えは正当とは言えない。更に曰く「苦手な分野で活躍を強いられている」「平均的な日本人という個性に無理にはめこんでいる」「無理強いしてはならない」・・・・・などの屁理屈から最低限の教育訓練を「強制だ」とか「管理はよくない」などと決め付ける、変な物分りの良さ、被害者意識がわが国の教育労働者諸君に蔓延しているようである。このことも日本の児童教育を悪くしていると言えるのではないのか。

義務教育は日本人としての基本を身につけさせ、将来日本人としてよりよい生活が出来るための基礎を授けることがその目的であるはずだ。だから、このような一見、聞こえ心地の良い屁理屈が旧態依然として、まことしやかに、うるさくいわれ続けている事に、私は全く賛同できない。

一般家庭では子供のしたいように自然にやらせて置いた方がイイ子になるという誤った風潮に乗って、人として日本人としてアタリマエに備えるべきマナー教育(家庭教育)を施さず、小さい時から枠をはずして、我がまま一杯の育て方をしてしまっている。こうだから子供たちは自分で自分を抑える事ができない(本能だけの)人間に成り下がってしまう。

キレルという行動も、この辺に原因があるのではないのか。たくましく育つどころか、心身にたくましさを欠く子供を、いたずらに生産していることになる。

B、枠を嫌がるのは人間も動物も同じだと考える。

だからと言って最低限のシツケ(特に家事の躾)を放棄して、また義務教育に一定の枠を設けないで子供を勝手気侭に放任すると、現実のように頑張りのきかない、忍耐力のない、長続きできない「誰がどう見てもオカシナ奴」が出てくる羽目になる。

結局は後になる程その修復が難しくなり、関係者は勿論、他の多くの人々にとっての お荷物になってしまう。この類が日本国中に大量生産されている現状を誠に困ったことでだと憂うるのである。


(2)、そこで私は

(イ)、義務教育期間中はその教育が一斉画一的であるのは当然だと考える。

@、文部科学省が決めている一定の枠(カリキュラム)と文部省が100年以上かけて作り上げた教科書(あの薄いテキスト)を信じよう。その最初から最後までを読み込ませ身につけさせることに専念することこそが教育機関の大切な任務である。

国民生活の基礎として必要最低限のことを記したこれらのテキストをマスターしさえすれば、日本人として、日本の大人として、一般に通用する教養を充分に身につける事ができると信じきることだ。又これをベースにすれば各人が独自の個性も適切に発揮できる「器に成長する」こと

を疑わないものとしたい。生徒の指導者たる教師の仕事は生徒自身ではとうてい引き出せない独自の能力、可能性を引き出してあげることに在る。業者が出版しているテストを繰り返させて授業時間の大半を費消してしまうような手抜きを画策せず、個々の教師が努力と責任を持って教科書だけを基に基礎固めをし、余計なことに目移りしない遣り方に徹すれば、生徒も教師もユトリの時間を確保することが可能であり、義務教育期間終了時には各自が各々の個性を自覚することもできることになると信ずる。

A、関係者も父兄も素直になってこのことに気づいて欲しいものである。

「画一的」「一斉」というと、どういう訳か我国では、「押し付け」のイメージがあるらしく、国民一般に嫌われる言葉のようである。物分りのいい大人が増えているせいだと思うが、判で押したような物分りの良さを方針としたのではあたりまえの基礎学力、日本人としての躾は身につかない。限られた人生の中の限られた義務教育期間中は家庭ではその家庭に相応するシツケ教育、学校では「一斉」「画一的」教育の断行こそが必要不可欠な教育手段と考えるべきである。

これをアイマイにし、避けて通ろうとするから、児童生徒の指導者たる教師が子供達を統率できないような歯がゆい、プロとして恥ずべき事態を招いてしまうのではないのか。

親がわが子をコントロールできなくなってしまう醜態も同様である。

B、親及び義務教育機関は、上述@の制度を信頼することを再認識して欲しい。

そうすれば所定の期間内は保護されるべき子女が外野の無責任な伝聞に惑わされたりする事無く、基礎学力は勿論シツケの取得に専念でき、自分の個性に合った進路も安心して、また落ち着いて考慮、選択できることになる。

(ロ)、言葉(日本語)の教育に特に力をいれるべきと考える。

日本語力の程度が落ちていることが巷で話題になっている。状況は深刻らしい。

専門学校の教師をやっている人から聞いたことだが、漢字が読めない、その意味が分からない等に本文を読んで理解する力ができていない者、小論文の問題を出してみると文章がまともに書けない者、中にはノートに書いた自分の字が読めなかったりする者もいる・・・とか。子供たちの読解力の低下が著しいようだ。日本語の習得を怠り、又これを放任しておくとコミニュケーション能力は育たない、それどころか自分の気持ちを日本語で他人に伝える事さえできなくなってしまう。

暴走族を捕捉して、調書を作成する担当官は普通以上に手間ヒマがかかるという。彼等は、ほとんど「自らの感情を言語化して表現する能力に欠けている」らしいからである。

国は日本語を上手に使うこと(読み、書き)、きれいな日本語を話すことが極めて大切であることを再認識し、日本語(言葉)にもっと力をいれて本気で教育する必要がある。

パソコンの世界では5年以内に、一般人が日常に発する音声は即座に、数カ国語にしかも正確に翻訳されるようになるようである。従って、母国語を正しく習得すること、母国語に誇りを持つことこそ、国際化が進む今後は各国国民にとってますます肝要になってくると言える。

外国語(特に英語)で生活しなければならない人以外(つまり殆どの日本人)は、外国語(英語)なんてどうでもいい世の中に既になって来ている。当たり前のことなのだが、日本人には日本語に堪能になるような日本語教育に専念させるべきである。


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